「茅ヶ崎マカナ」はどんな大会?

◆茅ヶ崎マカナ・フラ・フェスティバルは「ハワイと日本の心を”正しく”つなぐ、”ほんとうの”アロハを追求する人々のための国際イベント」を合言葉に、ハワイのクムフラや文化人らの企画、立案によるハワイ流儀のコンペティション、ワークショップが行われるフラやハワイ文化を愛好する人のためのイベントです。良識あるハワイの人々の意を受け、日本では「実行委員会」と茅ヶ崎市が共催して運営しています。日本人の主催者がハワイのクムフラと「契約」し招聘する大会ではありません。
◆誰もが参加しやすい大会です。独立採算ながら参加費用や観覧料金をできるだけ抑え、コンペティション出場者にチケットノルマも課しません。ワークショップもたっぷり2時間×4コマ。料金もかなり格安です。
◆ジャッジの公正性を確保するため、茅ヶ崎マカナではあらゆる工夫のもとコンペティションが開かれます。また、参加ハーラウは、直接、ジャッジに関しての質疑応答ができ、またフリーテーマでジャッジ(ハワイのクムフラ)たちと語り合える「パネルディスカッション」に参加していただけます。
◆大会当日の裏方である実行委員は一般のボランティア、学生ボランティアたちです。大会の趣旨に共鳴し、多くに人々の善意で支えられています。
◆ハワイの人々も、ハワイ文化を愛好する日本人も、いまいちど「アロハ」の原点に立ち返り、ハワイの芸術文化、精神文化を「あるべき姿」で伝承することをなにより大切に考えています。
◆最終日のクロージングセレモニーのラストは、会場の全員が手をつなぎひとつになって「ハワイアロハ」と「ふるさと」を歌います。外国の文化を学ぶには、まず自分のふるさとの文化を大切にすること。そんな思いを顧みるために最後は「ふるさと」を歌っています。

【大会の歴史】
始まりは1991年。その年、ハワイ・ホノルルで「ワールド・インビテーショナル・フラ・フェスティバル」(通称「ワールド」)が産声をあげました。創始者はポーリー・ジェニングス。ジョージ・ナオペ、ジョージ・ホロカイ、ノナ・ビーマーなどそうそうたるフラの権威者に支えられて誕生したこの大会は、ハワイのなかでも他の大会とは一線を画した、ユニークな大会として知られていました。主催者のアンティ・ポーリーは「ハワイ文化の正しい継承」と「教育のありかた」に徹底的にこだわり、ほとんどスポンサーをつけず、私財をなげうって、20年以上にわたり大会を継続してきました。
コンペティションのジャッジはなんと21人。そのほかMC、賞のプレゼンターなどとして、多くの著名なクムフラ達が参加していました。創始者、アンティ・ポーリーの崇高な理想に共鳴してのことです。

2009年頃、アンティ・ポーリーはあらためて「ワールド」の「日本大会」をつくって、ハワイと日本の文化交流ありかたを正そうと考えました。
実は、アンティはそれ以前に一度、同じような試みを日本人に委ねて「ワールド」の名のもとにイベントを開かせましたが、いろいろな問題が生じ、結局は大きな挫折と失望を味わうことになり、日本人に不信感さえ持つことになりました。当時、ハワイのフラのコミュニティでは、ほかにも日本人とハワイのクムフラ達によるトラブルが頻発していたそうです。
再度、フラの盛んな日本での「ハワイ文化のただしい継承・教育」を試みようとしたアンティは、当時、多くのハワイ人のクムフラ、ハワイ語学者それに文化人などの間で信頼の厚かった日本人 かずこセリッグ(ハワイ名:マカナオカラニ)にその夢を託しました。

1年半の準備期間を経て、かずこセリッグは茅ヶ崎の地で第1回目の大会をプロデュースします。アンティはエグゼクティブ・プロデューサーという立場で、当時のハワイ州知事から後援を取り付けます。本大会の哲学である「競うことより学ぶこと」をモットーに、ハワイ流儀をできるだけ取り入れて行われた手づくり感満載の素朴な大会は、ハワイでもけっこう評判になりました。

出場者にチケットノルマを課さない、入場料をできるだけ安く設定する・・など、アンティからの指示を忠実に守り、その精神に共鳴した多くのボランティアスタッフに支えられて、開催地・茅ヶ崎市も後援し、着実にアンティ・ポーリーをはじめとするハワイの人々も納得する大会となりました。

この活動の中で、2012年、プロデューサー・かずこセリッグが茅ヶ崎市とハワイの関係をより深めようと、アンティ・ポーリーの紹介で、ホノルル市郡議会の、アーネスト・マーティン議長と会談したことが、のちに茅ヶ崎市とホノルルが「姉妹都市」になるきっかけとなりました。茅ヶ崎はフラがさかん、サーフィンのメッカなどハワイとの共通点をあげていくなかで、かずこセリッグが「茅ヶ崎の海にはチャイナマンズハット(オアフ島北東部の海に突き出た岩)にうりふたつの烏帽子岩がある」という話を紹介すると、マーティン議長は大いに興味を示し、突然「姉妹都市の関係を結ぶという方法もある」と発言したのです。

その、かずこセリッグが病でこの世を旅立ったのは2013年の大会が終わったわずか6週間後のことでした。ときを同じくして、アンティー・ポーリーも高齢ということもあって第一線を事実上退きます。もっともアンティは理想の大会を継続するために私財をなげうってきた結果、その頃には自らの家まで手放していたのです。2012年11月の大会を最後にワールド・インビテーショナル・フラ・フェスティバル(ハワイ)は現在のところ開かれていません。
その後、ハワイのクムフラを中心とした有志たちが、日本でこれほどの理想を追求した大会を終わらせてはならないと、「ワールド」の日本での継続を決定、茅ヶ崎市の協力もあって2014年の大会の開催にこぎつけたのです。その翌月、ホノルルでは茅ヶ崎市との姉妹都市締結の調印式が行われました。茅ヶ崎市はこれまでの大会後援者の立場を「共催」に切り替え、これを機に「ワールド・インビテーショナル・フラ・フェスティバル日本大会」は2015年大会より「茅ヶ崎マカナ・フラ・フェスティバル」に改称し、「ワールド」の精神を引き継ぎ、さらに発展させることを使命に新たなスタートを切りました。




日本大会プロデューサー かずこセリッグ(ハワイアンネーム:マカナオカラニ
かずこセリッグ(1966-2013)

2011年より病魔に侵されながらも、自らの信念を貫いて、ワールド・インビテーショナル・フラ・フェスティバルの創始者ポーリー・ジェニングスと「ワールド」日本大会実行委員会を組織したハワイのクム・フラたちの意向を十分にくみ取って「日本でもできるフラの大会のあるべき姿」を茅ヶ崎の地で模索し実現していきました。かずこが亡くなった2013年の12月11日のホノルル市郡議会では、マーティン議長が自ら、かずこセリッグを追悼しその功績をたたえる演説を行いました。そして議場で議員や傍聴者が見守る中、第3回日本大会で優勝したチームがフラを捧げました。ホノルル市と茅ヶ崎市は友好関係を結びさらに交流を発展させていくことになりました。このようにこの大会は、ハワイでも日本とハワイを結ぶ、暖かくそして公正な、アロハの精神に満ちた「特別な大会」と認識されています。そして2014年10月24日、ついにホノルル市と茅ヶ崎市は正式に姉妹都市の調印をするに至りました。 家族として記す「山下和子」のバイオグラフィ



“ I would like to continue to help make Kazukoʻs dream come true regarding World Japan.” Ipolani Vaughan